阿蘇山の中岳が噴火したらしいです
夜中の噴火だったようで映像が残っていないんで、11000mの噴火がどんなもんか阿蘇山の写真に加工してみました
阿蘇市の webにあった画像に加工しました、ひどい出来上がりです
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死のクレバス
Jシンプソンさんの書かれた小説、死のクレバスの場所ですが
アンデス、シエラグランデ峰
10°16’38.24″ S 76°53’15.63″ W
Siula Grande
と書きます
カタカナで検索すると、場所が見付かりませんが、
Siula Grandeで検索すると google mapでも場所が特定できました
チベット ツアンポー峡谷 空白の5マイル
空白の5マイル、と言う小説の舞台になっている場所です
空白の5マイル 29°48’11.57″ N 95°08’41.73″ E
ザチュ Zha Qu Cun 扑(札)曲村 29°54’09.54″ N 95°08’51.11″ E
アシデン 阿子登村 A Zi Deng Cun 29°49’13.81″ N 95°12’20.76″ E
ギャラペリ 比魯 Gyalha Peri 29°48’57.39″ N 94°58’11.43″ E
小説を書いた時は前人未踏の地、だったようですが、現在では
滝の写真とかが panoramioに掲載されています
佐土原の歴史2
第7章 明治時代の佐土原
(1)広瀬転城
1869年(明治2年)の初め頃は、戊辰の戦争で勝利した佐土原藩の城下は賑わっていました。そんなときに佐土原城を広瀬の方に移そうという話が持ち上がりました。それは今ある城は空気が悪く、不便の土地であるという地形的な理由と、弓場組を無くそうという政治的な理由からでした。
明治2年10月、島津忠寛は、空気や水もきれいで、福島の港のある広瀬の地に、広瀬城を築くことにしました。しかし実際には、城を移すには大変なお金がかかる上に、封建制度そのものが無くなる時代ですから、結局はこの広瀬城は、わずか1年あまりで建設中止となり、完成すること無く姿を消してしまいました。幻の広瀬城となった訳です。しかし城は出来ませんでしたが、それまでに氏族(武士階級)や商人は広瀬の地(今の東町付近)に移ってきていたので、広瀬地方は大変賑わいました。
(3)廃藩置県
1871年(明治4年)7月、廃藩置県が行われました。これにより藩知事は土地と藩民を失い、藩そのものが無くなりました。明治4年7月14日、佐土原藩が無くなりました。佐土原県となりましたが、その年11月14日にはその佐土原県が無くなり、佐土原地方は美々津県が納めるようになりました。美々津県の県庁は、今の日向市にありましたが、佐土原には、南郡治所(みなみこおりちしょ)と言って県庁の支所が、明治5年2月5日に今の広瀬小学校前に置かれました。
1873年(明治6年)1月、美々津県と都城県が無くなり、宮崎県になりました。更に1876年(明治9年)8月、宮崎県が無くなり、日向全体を鹿児島県が納めるようになりました。
1883年(明治16年)、鹿児島県の一部を除いて、日向国一円を宮崎県として、鹿児島県から分離独立しました。
(5)明治初めの佐土原
藩政から藩知事制へ、そして廃藩置県で、県が政治を行うようになると、佐土原の地名が村と呼ばれるようになりました。1872年(明治5年)頃の佐土原には、上田島村、下田島村、下那珂村、東上那珂村、西上那珂村の5つの村がありました。この村の地名が後に、大字という地域名になりました
(9)佐土原町の移り変わり
佐土原村
1901年(明治34年)に町制を施行
1955年(昭和30年)に那珂村と合併して佐土原町になりました
広瀬村
1951年(昭和26年)町制を施行
1958年(昭和33年)佐土原町と合併して、新しい佐土原町が出来ました
2006年(平成18年)、佐土原町は、宮崎市、高岡町、田野町と合併して、新しい宮崎市となりました
ロシア コリマ川
日本に飛来してくるコハクチョウは、夏はここら辺に戻っているそうです
ロシア コリマ川
http://local.google.co.jp/maps?f=q&hl=ja&q=oman&t=k&ll=68.536276,160.72998&spn=2.936375,13.864746&om=1