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佐土原の歴史1

佐土原図書館発行の佐土原の歴史と文化財より

第3章 奈良、平安時代の佐土原
(1)那珂郡(なかぐん)の誕生
日向の名が歴史上出てくるのは、698年(天武天皇2年)の頃です。713年(和銅6年)には現在の宮崎県と鹿児島県の一部を含めた地域を日向の国とし、臼杵郡(うすきぐん)、児湯郡(こゆぐん)、那珂郡(なかぐん)、諸県郡(もろかたぐん)、宮崎郡(みやざきぐん)の5群に分けて納められるようになりました。
那珂郡はこの日向5群の名前から来ています。那珂郡というのは、田島(たじま)、新名(にいな)、夜開(やけ)、於部(おごおり)の4郷からなり、田島は佐土原、新名は新名爪(にいなづめ)、夜開は新富、於部は高鍋(たかなべ)あたりと言われています。

(2)田島の開発
10世紀以降になると、郡のもとに郷と院がおかれました。この頃の歴史書の中には田島院、那珂郷という地名が書かれています。それぞれ郷、院には土地を管理するために郷氏と院氏が置かれました。
1093年(寛治7年)、日向の国史は、田島の院氏に院内の田畑39町を宇佐八幡に寄付させています。現在の上田島、下田島あたりでは無いかと考えられ、巨田八幡宮(こたはちまんぐう)の始まりもこの頃では無いかと言われています(時代は平安時代末期)
1197年(建久8年)、日向国図田帳に、鎌倉初期における日向の荘園(私有地)についての記述があります。それによると、日向全体では8000町あまり(1町は約1ヘクタール)で、うち公領(国有地)はわずかに25町、他は神社の私有地になっています。
佐土原周辺の荘園は、田島庄90町、広原庄100町、那珂庄200町、袋庄(広瀬)15町、佐土原庄15町となっています。
佐土原、と言う地名が文献に記されているのは、この、佐土原庄15町が最初です。

佐土原町、地名のいわれ

浮橋地区
石崎側は浮橋地区で日章学園高校の北側を流れる娯楽寺川と亀田地区から流れる亀田川と合流する地点のため、大水が出ることが多かった。そのため橋が流され修復に時間がかかった。また佐土原城があった時代は、敵が攻め込んできた時、すぐに橋を壊して敵の攻撃を防ぎ止めるようにしていたともいわれる。そのため、すぐに壊して、すぐに修復できるように工夫していたのであろう。所が、橋の名前は有喜橋となっている。(昭和37年の地図で有喜橋となっている)

成枝地区
この辺りの土地は肥えていて作物が良く出来たので、作物が成ると言うことから、成枝という地名になった

平小牧地区
元は、地名の小字で平と小牧の地区があり、それが合わせて平小牧となった

尾原地区
城ケ峰台地古墳と、尾原の稲荷山古墳を結ぶ地域に分布していた田んぼで農耕生活を営み、その台地からしっぽのように突き出た場所から、尾の原が区名の由来と思われている

東小牧地区
近くに、平小牧地区、小牧台地区があり、その東にあるので

小牧台地区
昭和48年、下田島、下那珂の丘陵地に 34.5ヘクタールの団地を造成し、昭和51年に下水道処理場が完成したので分譲開始された。小牧台の名称は、古くから小牧という小字名があり、また隣接した平小牧という地区もあることから、丘陵地を造成したのだから小牧台、と名付けられたと思われる

久峰地区

光陽台地区
昭和56年に造成完了した。台地で回りに高い山は無く、日照時間も長く日光がさんさんとあまねくさして、光陽台という地名はぴったり