linuxセキュリティ関係

図書館で借りた linuxセキュリティ関係本からの抜粋
コマンドとか、とっかかりのみ

パスワードが記述されているのは /etc/shadow
pwunconvコマンドを実行すると shadowから passwdへパスワードがコピーされる
pwconvで元に戻る

ユーザー認証を行うプログラムごとの設定ファイルは
/etc/pam.d
内にある

rootログインの禁止
/etc/securetty の内容を消す
/etc/ssh/sshd_configの
#PermitRootLogin Yes

PermitRootLogin No
とする

sshを標準の port22で運用すると攻撃を受けやすいので
#Port 22
を別の番号に変える

netstat -atun
開いている portの確認

firewallの確認
iptables -L
iptablesの設定は /etc/sysconfig/iptables

TCP Wrapperベースのアクセス制御
host名等で制御するやり方
lddコマンドを使うと TCP Wrapper使っているかが分かる
libwrapにリンクされていたら使っている
設定は /etc/hosts.allowと hosts.deny

佐土原の歴史2

第7章 明治時代の佐土原
(1)広瀬転城
1869年(明治2年)の初め頃は、戊辰の戦争で勝利した佐土原藩の城下は賑わっていました。そんなときに佐土原城を広瀬の方に移そうという話が持ち上がりました。それは今ある城は空気が悪く、不便の土地であるという地形的な理由と、弓場組を無くそうという政治的な理由からでした。
明治2年10月、島津忠寛は、空気や水もきれいで、福島の港のある広瀬の地に、広瀬城を築くことにしました。しかし実際には、城を移すには大変なお金がかかる上に、封建制度そのものが無くなる時代ですから、結局はこの広瀬城は、わずか1年あまりで建設中止となり、完成すること無く姿を消してしまいました。幻の広瀬城となった訳です。しかし城は出来ませんでしたが、それまでに氏族(武士階級)や商人は広瀬の地(今の東町付近)に移ってきていたので、広瀬地方は大変賑わいました。

(3)廃藩置県
1871年(明治4年)7月、廃藩置県が行われました。これにより藩知事は土地と藩民を失い、藩そのものが無くなりました。明治4年7月14日、佐土原藩が無くなりました。佐土原県となりましたが、その年11月14日にはその佐土原県が無くなり、佐土原地方は美々津県が納めるようになりました。美々津県の県庁は、今の日向市にありましたが、佐土原には、南郡治所(みなみこおりちしょ)と言って県庁の支所が、明治5年2月5日に今の広瀬小学校前に置かれました。
1873年(明治6年)1月、美々津県と都城県が無くなり、宮崎県になりました。更に1876年(明治9年)8月、宮崎県が無くなり、日向全体を鹿児島県が納めるようになりました。
1883年(明治16年)、鹿児島県の一部を除いて、日向国一円を宮崎県として、鹿児島県から分離独立しました。

(5)明治初めの佐土原
藩政から藩知事制へ、そして廃藩置県で、県が政治を行うようになると、佐土原の地名が村と呼ばれるようになりました。1872年(明治5年)頃の佐土原には、上田島村、下田島村、下那珂村、東上那珂村、西上那珂村の5つの村がありました。この村の地名が後に、大字という地域名になりました

(9)佐土原町の移り変わり

佐土原村
1901年(明治34年)に町制を施行
1955年(昭和30年)に那珂村と合併して佐土原町になりました

広瀬村
1951年(昭和26年)町制を施行
1958年(昭和33年)佐土原町と合併して、新しい佐土原町が出来ました
2006年(平成18年)、佐土原町は、宮崎市、高岡町、田野町と合併して、新しい宮崎市となりました

佐土原の歴史1

佐土原図書館発行の佐土原の歴史と文化財より

第3章 奈良、平安時代の佐土原
(1)那珂郡(なかぐん)の誕生
日向の名が歴史上出てくるのは、698年(天武天皇2年)の頃です。713年(和銅6年)には現在の宮崎県と鹿児島県の一部を含めた地域を日向の国とし、臼杵郡(うすきぐん)、児湯郡(こゆぐん)、那珂郡(なかぐん)、諸県郡(もろかたぐん)、宮崎郡(みやざきぐん)の5群に分けて納められるようになりました。
那珂郡はこの日向5群の名前から来ています。那珂郡というのは、田島(たじま)、新名(にいな)、夜開(やけ)、於部(おごおり)の4郷からなり、田島は佐土原、新名は新名爪(にいなづめ)、夜開は新富、於部は高鍋(たかなべ)あたりと言われています。

(2)田島の開発
10世紀以降になると、郡のもとに郷と院がおかれました。この頃の歴史書の中には田島院、那珂郷という地名が書かれています。それぞれ郷、院には土地を管理するために郷氏と院氏が置かれました。
1093年(寛治7年)、日向の国史は、田島の院氏に院内の田畑39町を宇佐八幡に寄付させています。現在の上田島、下田島あたりでは無いかと考えられ、巨田八幡宮(こたはちまんぐう)の始まりもこの頃では無いかと言われています(時代は平安時代末期)
1197年(建久8年)、日向国図田帳に、鎌倉初期における日向の荘園(私有地)についての記述があります。それによると、日向全体では8000町あまり(1町は約1ヘクタール)で、うち公領(国有地)はわずかに25町、他は神社の私有地になっています。
佐土原周辺の荘園は、田島庄90町、広原庄100町、那珂庄200町、袋庄(広瀬)15町、佐土原庄15町となっています。
佐土原、と言う地名が文献に記されているのは、この、佐土原庄15町が最初です。